日本史

卑弥呼について3つのポイントでわかりやすく解説!邪馬台国の謎や魏志倭人伝について

投稿日:2017年8月13日
更新日:

日本史が好きな僕が、このブログでやってみたかったことを始めてみます。

それは、「日本史を分かりやすく解説する」こと。

日本史の人物や出来事を3つのポイントにまとめて、歴史が好きな小学生でも理解できて、大学受験でも役に立つという内容を目指して書いていきたいと思っています。

 

まずは、日本の歴史のはじまりの時代から。

誰でも知っている超有名人、邪馬台国の女王「卑弥呼(ひみこ)」について解説します。

 

卑弥呼の時代は3世紀。

卑弥呼の時代の日本には文字がありませんので、記録を書き残しておくことはできません。なのになぜ現代人が卑弥呼や邪馬台国について知ることができるのかというと、中国の歴史書に書かれているからなんです。

 

邪馬台国や卑弥呼のことは中国の記録である『魏志』倭人伝という史料をもとに研究されています。

 

卑弥呼について分かりやすく理解するための3つのポイントはこれ。

「邪馬台国の女王であること」

「中国(魏)に使者を送ったこと」

「卑弥呼の死後、乱が起きたこと」

の3つです。

 

それではさっそく、卑弥呼について3つのポイントで解説していきます。

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邪馬台国の女王

卑弥呼について理解するポイントその1は、卑弥呼は3世紀の日本に存在した邪馬台国という国の女王であったということ。

 

3世紀の日本は、弥生時代の後期にあたります。

弥生時代っていうと、なんとなくのどかで平和な時代を思い浮かべませんか? 僕も以前は、弥生時代というと、のどかな集落で米を育てながらのんびり暮らしていたというようなイメージをもっていました。

だけどそんなことはなく、弥生時代後期は戦争の時代だったのです。

2世紀の後半ごろから、日本は戦乱の時代になっていたようです。各地で戦乱があったことは、中国の歴史書に「倭国大乱」として書かれていますし、考古学的な史料からもそのことは分かります。

 

そのように、弥生時代後期は小国家同士が争い合う時代だったわけですが、そこに登場するのが邪馬台国です。

邪馬台国は、30ほどの小国をまとめあげ盟主となった国。この邪馬台国を中心とする小国の連合体を邪馬台国連合といいます。そして3世紀前半に邪馬台国連合の女王となったのが卑弥呼なのです。

 

卑弥呼は、漫画や小説などのフィクションでも描かれることの多い人物ですが、大体の作品で、巫女やシャーマンのような雰囲気の女性として描かれていますよね。『魏志』倭人伝には、卑弥呼は「鬼道」を使って民を治めていると書かれています。

この「鬼道」は、呪術のようなものであると解釈されています。つまり卑弥呼は祈祷を行って、神の声である神託を民に告げる神官のような存在だったのですね。

卑弥呼が女王をしていた時代、邪馬台国では政治的な実務は卑弥呼の弟が担っていたといわれています。

 

邪馬台国とはどんな国だった?

ちなみに、邪馬台国はどのような国であったかというと、すでにこの時代、商品を売買する市場も存在していましたし、租税の仕組みや刑罰についての制度も存在していました。

また、「大人(たいじん)」と呼ばれる支配者層と「下戸(げこ)」と呼ばれる一般民衆が存在し、身分制度もありました。卑弥呼より前の時代の日本のことが書かれた『後漢書』東夷伝には、「生口」と呼ばれる奴隷がいたということも書かれているので、奴隷制度もあったようです。

邪馬台国の男は「黥面文身(げいめんぶんしん)」をしていました。黥面文身とは何かというと、入れ墨ですね。顔や身体に入れ墨をするのが当時は一般的だったようです。

 

邪馬台国の場所については、近畿にあったという説と九州にあったという説の2つの説があります。個人的には、九州にあったという方がロマンを感じますね。

 

中国(魏)に使者を送り、「親魏倭王」の称号を得た

卑弥呼について理解するポイントその2は、卑弥呼は中国に使者を送ったということ。

 

卑弥呼や邪馬台国について現代の日本人が知ることができるのは、卑弥呼が中国と外交をして、そのことが中国側の史料に書かれているからです。

 

このころの中国は魏・呉・蜀に分かれた三国時代。有名な『三国志』の時代ですね。

ただ、有名な曹操・孫権・劉備や関羽・張飛・諸葛孔明といった三国志の英雄たちが活躍する時代よりは少し先のことです。

邪馬台国が使者を送ったのは、三国の1つのです。魏は三国志の曹操が建国した国。卑弥呼の時代に魏を治めていた皇帝は、曹操の孫で曹丕の息子にあたる曹叡か、さらにその息子の曹芳です。

 

卑弥呼が魏に使者を送ったのは、景初2年(238年)という説と、景初3年(239年)という2つの説があります。景初2年は史料の間違いで、実際は景初3年というのが通説です。

卑弥呼が魏に送った使者は「難升米(なしめ)」という人物。

魏との外交によって、卑弥呼は魏から「親魏倭王」という称号をあたえられています。また、金印や銅鏡(三角縁神獣鏡というものだといわれています)も魏から受け取ったと記録されています。

 

卑弥呼はなぜ魏に使者を送った?

卑弥呼がなぜ魏に使者を送ったかについても、いろんな理由があるのでしょうが、おそらく権威付けのためです。邪馬台国と女王卑弥呼は小国連合の盟主という存在でしたが、狗奴国(くなこく)など、邪馬台国連合と敵対する国も存在しました。

当時の日本は、大国である中国の周辺にある小国にすぎません。魏から「親魏倭王」の称号をもらうことで、倭(日本)の王であるということを認めてもらい、後ろ盾を得るという意味があったはずです。

 

ちなみに、当時の中国は三国時代でしたので、魏だけではなく呉や蜀も独自に外交をしていました。内陸の蜀は別にして、海に面した呉も、当時の日本と外交していたんじゃないかという研究もあります。

その説では、呉は邪馬台国と対立していた狗奴国と結び付いていたというんですね。つまり、邪馬台国と狗奴国の対立は、魏と呉の代理戦争であった可能性もあるのです。この時代のことなので想像の域を出ませんが、ものすごくロマンのある話ですよね。

 

卑弥呼の死後は、再び争いが起こった

卑弥呼について理解するポイントその3は、卑弥呼の死後、邪馬台国連合は分裂して再び戦乱が起きたということ。

 

卑弥呼は、西暦247年ごろに死んでしまいます。

卑弥呼の死後は男の王が邪馬台国の王になりますが、小国連合である邪馬台国は再び分裂して争いが起こってしまいます。

その後、卑弥呼の一族の「壱与(いよ)」という少女が新たな盟主に選ばれると、争いがおさまったとされています。

壱与は卑弥呼の娘だと勘違いしがちですが、卑弥呼の娘ではなく一族の娘です。

 

おわりに

以上、卑弥呼について3つのポイントで解説しました。

卑弥呼が死んで、壱与が治めた邪馬台国がその後どうなったのかは分かっていません。

卑弥呼や邪馬台国のことが書かれた『魏志』倭人伝は、3世紀なかごろの日本の様子を書いた史料です。その後の4世紀は、日本のことを書いた史書は存在しないので、謎の4世紀とも呼ばれます。

呪術を使う女王の存在であったり、その後が謎であるというところが邪馬台国に対して多くの人がロマンを掻き立てられる理由でしょうね。

卑弥呼の墓といわれている古墳もいくつか存在しますが、もし本当に卑弥呼の墓であることが証明されたら、日本の古代史は塗り変えられることになります。そういう時が来るのかどうか、楽しみですね。

 

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