日本史人物解説

大久保利通の妻 満寿(大久保満寿子)はどんな人?その生涯を紹介

この記事では、大久保利通の妻である満寿(大久保満寿子)がどんな人物でどんな生涯をおくったのかについて紹介します。

明治維新3傑の一人、大久保利通を妻としてどのように支えたのでしょうか。

それではさっそく見ていきましょう!

薩摩の武士の家に生まれ、大久保利通に嫁ぐ

満寿子は薩摩藩の武士、早崎七郎左衛門の娘として生まれます。
早崎七郎左衛門は大久保利通(正助)の上役で、その縁で大久保と満寿子は結婚することになったのだと思われます。

満寿子が大久保家に嫁いだのは安政4年(1857年)。
このとき大久保利通は27歳でした。

満寿子に関する史料は乏しく、生年月日も分かっていないので、大久保と結婚した時、満寿子が何歳だったのかは分かりません。

大久保利通の27歳というのは、この頃にしては晩婚のようです。
大久保はお由羅騒動で父が島流しになったり、本人も蟄居処分になって家が困窮したため、なかなか結婚できないという事情があったのでした。

4男1女の5人の子を生み、家を守る

満寿子は大久保利通との間で4男1女の5人の子供に恵まれます。

大久保は満寿子との結婚後、島津久光のもとで頭角をあらわし、どんどん出世していきます。
薩摩から出て活動することも多く、家を留守にすることも多かったでしょう。
満寿子はそんな大久保の家の留守を守り、5人の子どもを育て上げたのでした。

ちなみに大久保利和、牧野伸顕、大久保利武ら、大久保利通と満寿子の間に生まれた子どもたちは政治家や実業家として活躍し、さらにその子孫も日本の名家として脈々とその血が受け継がれています。
麻生太郎氏が、大久保利通の孫の孫、つまり玄孫であるというのは有名ですよね。

ちなみに、厳格な印象のある大久保利通ですが、家族をとても大事にしていたようで、子どもたちに対しては子煩悩な父親でもあったそうです。

大久保利通暗殺の7ヶ月後に死去

時代が明治になると、大久保利通は東京に邸宅を建て、住むようになります。

東京の大久保邸には、もと祇園の芸姑だったという、おゆうという妾がいて、大久保とおゆうとの間には3人の子どもがいました。

一方、満寿子は明治になっても鹿児島に残り、家を守っていたようです。

ですが、明治7年(1874年)に上京します。
なぜこのタイミングで上京したのかは想像の域ですが、長男の大久保利和と次男の牧野伸顕が留学から帰国して東京の開成学校に入学したのが同時期なので、タイミングを合わせたのかもしれません。
また、前年の明治6年(1873年)には西郷隆盛が鹿児島に戻っており(明治六年政変)、西南戦争につながる火種を予想した大久保が妻を呼び寄せたという事情もあったかもしれません。

満寿子が東京に住み始めてからも、大久保利通は西南戦争など様々な問題に対して政府の中心人物として対応していたので、家でゆっくり過ごすこともあまりなかったでしょう。

そして3年後の明治10年(1878年)5月14日、大久保利通は暗殺されてしまいます(紀尾井坂の変)。

大久保利通の死後、満寿子は体調を崩すようになり、7ヶ月後の明治10年12月7日にこの世を去りました。

おわりに

大久保利通はお金に関して潔白な人で、国の事業のために私財を使ったりしていたので、死後には借金が残ったほど。

そのような人の妻として家を守るのは大変だったでしょうね。
歴史の表には出てきませんが、大久保利通という偉人を裏で支えていたのでしょう。

以上、大久保利通の妻、満寿子はどんな人だったのかについて紹介しました。
この記事が参考になれば嬉しいです。

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